楽しかった思い出を胸に帰国しました!
市長さんとの記念写真。
ハワイの姉(左) 珠里と妹の砂亜里…あえて漢字の名前で…。
この漢字でありながらジュリー、ミリー、サリーと呼べる名前をもらった私たちが、
祖父母や両親から残されたものは、
貧乏だったのに絵画を売らずに生きた、
祖父の絵を愛する気持ちと残された絵の数々。
そして海を越えた交流と友情となりました。
それまで「おじいちゃんの絵は、売るに足りない貧乏画家の絵」
のような語られ方をしていたものですから、
祖父の絵画は、
ただ、なんとなく大切にしてきた存在…。
今のインテリアには合わせにくいし…う~ん…的な。
「今日こそ素晴らしい絵が描けましたね、早く売りましょう。」
と祖母が言っても決して祖父は絵を売らなかったらしく…。
代わりに日本から指圧の本を取り寄せて、
近所で指圧師として喜ばれていました。
父たちは咲き乱れる花を摘んで近くの香水工場に買い取ってもらい、
それで生計を立てていたそうです。
行ってみると、
南仏の近くの香水工場とは「フラゴナール」など。
フランスの香水の半分くらいがこの地元から産出されていました。
ひゃー✨
知らなかったことばかり。
南仏の香水工場についての歴史は、
今回お世話になったステファニーさんが日本語で書いていますから、
こちらをご覧くださいね。
もしもおじいちゃんが絵画に値段をつけて売っていたら…
エコールドパリの画家の仲間入りしていたのかな。
もしかして私たちはお金持ちの遺族の仲間入りしていたかも?
キャーキャー✨
残念すぎー(笑)
そんなふうに想像するだけで浮かれた気持ちになる旅でした。
オリーブの木がどこにでも生えているこの地にて、
こうして集まってくださった地元の方々とご挨拶させていただき、
展覧会では子供達もアジアをテーマにした発表を。
資産価値でもなく、
遺産でもなく、
遠く離れた地で100年近くも経ってから交流だけが残ったのは、
祖父母たちが「佳い思い出」のみを残し去ったからかな。
日独伊三国同盟によって、
計らずもフランスと敵国となった日本人だった祖父が、
この美しい光の土地を去ること。
それがどんなにお互いに辛かったことでしょうと…
マルセイユからの船の長旅は、
小さな子供達を抱えた祖母をどんなに不安にさせたでしょうと…
胸が熱くなりました。
そして国交を回復して再び私たちが会えたことが、
戦争のない国を考える…
そんな機会となったことは言うまでもありません。